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篆書とは?

篆書

篆書といいますと、いまや普通には書かない書体です。しかし、印鑑の実印や、 デザイン文字で今も見かけることはあります。篆書とは何者でしょうか。

1 篆書以前

篆書の前を単純にさかのぼると、金文、甲骨文となります。甲骨文というのは亀の甲羅や 牛の肩甲骨などに刻り込まれた文字のことで、金文というのは、青銅器などに鋳込まれた 文字のことを言います。中国史でいえば殷、周、春秋戦国時代という区分に入ります。
しかし、甲骨文、金文と一口に言いますが、これらが中国全土で使われていたわけではありません。 地方によって文字の形が違っていたといっても過言ではないでしょう。 篆書も一地方の書体「大篆」といわれていました。その一地方というのが秦です。
なお、大篆については「石鼓文」というものが残っております。

2 漢字初の統一

秦(?〜紀元前206 統一期間は紀元前221〜紀元前206)といいますと中国初の統一国家といわれています。 歴史上の人物で言えば中国初の皇帝、始皇帝(紀元前259〜紀元前210)が出てきます。
始皇帝の政策はいろいろありますが、ここでは書を取り扱っているので文字の話に限定しますと、 書体を篆書に統一した、ということがいえるでしょう。
ただ、大篆をそのまま使うには複雑だったので、大篆をもとにすっきりさせて「小篆」というものをつくりました。 今残るものに「泰山刻石」という石碑がありますが、縦長の、すっきりした姿を見ることができます。

3 篆書が消えた?

秦は滅び、次に中国を統一したのは漢(前漢 紀元前206〜紀元前8)です。漢の時代になりますと、 隷書が出てきますので「隷書とは何者?」に譲りますが、篆書は?といいますと、暫く見なくなってしまいます。 しかし、「篆隷文体」などの資料から、あったことは確認できます。要は、あまり使われなくなったということです。
そんな篆書が目立つようになったのが唐(618〜907)の時代のこと。楷書の石碑の題名の部分に 篆書が用いられたり、篆書の研究家が出てくるようになります。
篆書は表舞台から消えたわけではありませんが、ひっそりと、印鑑や石碑の題名部分でじっと生きるようになりました。

4 篆書復活

篆書が再び脚光を浴びたのは清(1616〜1912)の時代です。石に刻まれていた文字が筆で書かれるようになったのです。 ですが、清王朝が篆書を使っているのではありません。
清の時代になると実証的な学問が発展し、石碑などが見直されました。その流れから 篆書が再び出てきたといえますが、もうひとつは、西洋諸国に対して中国の歴史の深さを 篆書を出すことによって誇ろうとしていたのではないかと思います。
例えば、ケ石如(1743〜1805)などは、石に刻したかのような篆書を筆で書いています(それ以前も篆書を筆で書いた ものがありますが、まるで雑体書の空気が流れています)。
つまり、篆書に始まった書が、篆書に戻った、つまり書の歴史は一周したのです。

5 篆刻へ

中国の書の歴史は篆書に始まり、篆書に戻りました。そして、篆書の真髄、刻すというところまで戻っていきました。篆刻です。 篆書はもともと刻すための書でした。ですから、篆書を見ますと、筆で書いた感じがしないのです(どちらかというと、鉛筆で書いたほうがはやいかもしれません)。
4の部分で書いたように、篆書は筆の書き方で復活したわけですが、それが刻すというところまで戻った時、篆刻という限られた空間に行ってしまったのです。
篆刻といいますと、いまやカルチャースクールでもやっていますが、印鑑と違いまして、欠けていないといけないといわれています。 これはどういうことかといいますと、筆で書いた篆書は、確かに古い感じが出せるかもしれませんが、あくまでも感じだけです。 石に刻んだ文字のように、風化した感じというのは出せません。
しかし、石に刻まれると、のちには風化し、拓本にとられ、摩滅していきます。 その摩滅が、風化がその石碑の歴史であり、ひいては中国の歴史の深さを現出しているものなのです。
その歴史を人工的に作り、しかも限られたスペースに封じ込めてしまう。つまり、限られたスペースに中国の歴史の深さを 人工的に作り、封じ込めてしまったのです。
なぜこんな必要があったのか?これは中国文化の自己防衛、つまり、西洋諸国に次々と敗れていく中で、歴史の深さだけは、 文化の深さだけは負けないということを篆書に、それでも敵わないことから篆刻に、つまり 限られたスペースに中国文化を込めたかったのではないかと思います。

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