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鰹木と千木
日本で建築物の外観を飾るようになったのはいつごろでしょうか。
寺院建築の入った飛鳥時代、人々は瓦屋根・朱色の柱・緑色の格子窓に驚いたといわれます。
一方で神社建築というのもありますが、これには飾りがないのでしょうか。
ここでは神社建築における初期の飾りについて考えてみようと思います。
○鰹木(かつおぎ)と千木(ちぎ)の姿

写真は石川県金沢市にある久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)という神社です。
近代の神社建築に流行った復古様式(できるだけ古い姿をもとに造ること)なのですが、
唐破風や千鳥破風がついており、ちょっと違和感が感じられる姿かもしれません。
このうち、青色で囲んだ部分が鰹木(かつおぎ)、黄色で囲んだ部分が千木(ちぎ)
といいます。伊勢神宮や出雲大社などにもこの姿はあります。
○鰹木

別の角度から鰹木を撮ったものです。ちなみにこれは銅板で巻いたものです。
鰹木といいましても、いろいろな字をあてます。「堅魚木」「勝男木」などありますが、
どれも読みは「かつおぎ」です。
さて、なぜこれが屋根の棟の上に乗っかっているか。説として
・棟を抑えるための補強材。
・鰹節を屋根で干していた姿の象徴
というのがあります。但し、決定的な説はありません。
また、この鰹木の本数で祀られている神の性別がわかるといわれます。本数が奇数ならば
男性、偶数なら女性といわれています。
鰹木については『古事記』雄略天皇の条に次のような件があります。
ここに山の上に登りて国の内を望けたまへば、堅魚を上げて舎屋を作れる家ありき。
天皇その家を問はしめて云りたまひしく、「その堅魚を上げて舎を作れるは誰が家ぞ。」
とのりたまへば、答へて白ししく、「志幾の大縣主の家ぞ。」とまをしき。ここに天皇詔
りたまひしく、「奴や、己が家を天皇の御舎に似せて造れり。」とのりたまひて、すなはち
人を遣はしてその家を焼かしめたまふ時に・・・。
事実はどうか、なんともいえませんが、天皇の住居に鰹木が上げられていたこと、そして、
それは天皇のみが許されたモノだったことが窺えるかと思います。
○千木

これは千木を正面から見た姿です。どう見ても飾りと化していますが、これももともとは
構造材の一部だったといわれます。屋根を作るときに×のように木を交差させ、その余った部分が
千木だといわれています。
構造材の一部が装飾となったということになります。
これも鰹木と同じく、祀られた神の性別を表わすと言われています。写真にあるように 垂直に切られていると男性、水平に切られていると女性といわれています。
○構造材から装飾へ
鰹木も千木も、どうやら実用本位(構造材)であったのが、後にそれが忘れ去られ、
装飾と化したものと言えるのではないかと思います。
構造材が装飾と化した例として、蟇股や手挟などをあげることができるわけですが、
特に今回紹介した鰹木と千木はその先駆けといえるものではないかと思います。
確かに、装飾と考えると蟇股の中の彫刻などに比べれば非常に地味で、「装飾なのか?」
と疑問符が出てきても不思議ではないのですが、飾金具を打つ例などがみられますので、
飾るという意識が働いていたのではないかと思います。
但し、神社だからといって必ずこの鰹木と千木があるとは限りません。また、この二つがあるから
古くからある神社とも限りません。例えば流造(ながれづくり)というやりかた(京都市下鴨神社など)
では両方ともついていませんし、仏教の影響を受けた神社建築では見当たらない場合が多いです。
ですから、仏教的色彩をなくすというので復古様式というのが生まれました。明治時代に造られた神社は
新しいにもかかわらず、復古神道の影響を受けていますので、鰹木と千木がある場合がほとんどです。