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江戸図屏風にみる建築装飾

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に「江戸図屏風」という六曲一双の屏風が 所蔵されています。三代将軍徳川家光(1604〜1651)の事跡、江戸時代初期の 江戸を描いた数少ない絵画史料として有名ですが、この屏風を見ますと、かつてあったと思われる 建築が多々描かれており、なかには装飾を多く凝らした姿を持つ建築も見ることができます。
ここでは、気になる建築を拾い、解読していきたいと思います。
尚、画像は国立歴史民俗博物館ホームページwebギャラリー でご覧できます。
また、徳川家霊廟は長崎大学付属図書館ホームページで一部写真をご覧できます。

○大名屋敷の門

左隻第4扇中下「松平大隈守」と付箋。薩摩藩2代藩主島津光久(1616〜1695) のことであろうか。門は向唐門、桧皮葺。門の内側が描かれている。
彫刻までは確認することができないが、 明らかに金と黒の装飾がされている。そこまで金を使っていたかはなんともいえないが、 黒は漆の装飾であろう。

左隻第3扇中上「松平陸奥守」と付箋。仙台藩2代藩主伊達忠宗(1600〜1658)の ことであろうか。門は向唐門、桧皮葺。門の側面が描かれている。
辛うじて獅子の彫刻が認められる。また、門があまりにも華麗だったからなのか、 門を見物(?)している女性たちが描かれている。

左隻第2扇上「尾張大納言殿」「水戸中納言殿」と付箋。三棟並んでおり、付箋のない建物は 「紀伊大納言殿」か。つまりこの三棟は徳川御三家の屋敷で、 徳川義直(1601〜1650)、徳川頼房(1603〜1661)、徳川頼宣(1602〜1671) の三人となろうか。門は向唐門、桧皮葺、いずれも門の正面が描かれている。
屋根には鯱のようなものが描かれ、扉綿板も装飾されている。実際どのような彫刻がされて いたのかは窺えないが、花鳥のような装飾が見える。

左隻第2扇中下、付箋はなく、近くに「和田倉橋」「日本橋」あり。門は向唐門、桧皮葺。 門の側面が描かれている。
装飾の詳細は窺えないが、塀にも装飾が認められる。

左隻第2扇中下、付箋はないが、松平伊予守上屋敷とされている。福井藩3代藩主 松平忠昌(1598〜1645)を指す。門は切妻造、桧皮葺、唐破風はない。門の 正面が描かれている。
扉綿板には唐草、側面には人物と思しき装飾。塀にも装飾がされており、 よく見ると左右に虎がみえる。 また、瓦葺の門が右にあるが、象の木鼻が認められる。
この屋敷の向かいにも大名屋敷があり、松平肥前守上屋敷とされている。 加賀藩3代藩主前田利常(1594〜1658)を指す。門は向唐門、桧皮葺。門の内側が描かれている。 この門も扉綿板などに装飾が認められるが、詳細は窺えない。

松平伊予守上屋敷は出光美術館蔵「江戸名所図屏風」にも描かれている。
この屏風には大名屋敷がこの一棟しか描かれていないが、「江戸図屏風」に 比べて門が詳細に描かれている。
これをみると門の屋根に獅子が乗り、正面破風のところには亀。冠木には麒麟のような 姿が。木鼻には龍。塀には水に犀、屋敷の破風飾りには竹に虎が表現されている。
実際このような彫刻がされていたかはわからないが、何かをもとにして描いたものであろう。

左隻第1扇上、「駿河大納言殿」と付箋。徳川家光の弟、徳川忠長(1606〜1634) のこと。門は向唐門、桧皮葺。門の側面が描かれている。
側面なので装飾は詳しく窺えないが、隣にある瓦葺の表門にも装飾らしいものが 認められる。

ここで紹介した門はいずれも「御成門(おなりもん)」、つまりは将軍来訪のための門です。 この屏風が描かれた時代、つまり徳川家光の頃までは将軍御成が頻繁に行われました。 そのために贅を凝らした建築、「御成御殿」が造られ、将軍専用の入口、「御成門」が用意されました。
「御成門」に類似した門に「勅使門(ちょくしもん、天皇の使いを迎える時に使う)」という門 がありますが、これも装飾が施されていたりします。
この門における装飾は、通る人のため、それぞれの藩の格式や財力を誇示するため、といえるでしょう。 これで具体的に施されていた彫刻などがわかれば、より読み解くことができるのですが。

○霊廟

右隻第5扇中下、「東照大権現宮」と付箋。現存する上野東照宮のことである。
門は平唐門、透塀に囲まれ拝殿、石の間、本殿(権現造)が描かれている。
現在の上野東照宮は慶安4(1651)年の大改築が加えられており、江戸図屏風に 描かれた年代(寛永年間といわれる)の東照宮は寛永4(1627)年に造営されたときの 姿であろう。現存の東照宮は瓦葺だが、描かれているのは桧皮葺であるというのが大きな違いといえようか。 ちなみに周囲には寛永寺や浅草寺が描かれているが、装飾の差は歴然である。

左隻第5扇上、「台徳院殿御廟所」「台徳院殿御仏殿」と付箋。2代将軍徳川秀忠 (1579〜1632)の廟所で、増上寺境内にあった。廟所は八角形、裳階(もこし)つきの 一層。銅板葺。絵図で見る限り豪華さが窺えるが、実は第二次大戦まで現存していた。
仏殿は本殿・相の間・拝殿からなる権現造、桧皮葺。さすがに細かな装飾までは窺えないが、 絵で見る限りでは豪華な建物ということが一目瞭然である。この建物も第二次大戦まではあったが、 焼失。現在は総門(増上寺境内)・勅額門(埼玉県所沢市)・御成門(同左)・丁字門(同左)が現存する。

左隻第4扇上、「崇源院殿御霊屋」と付箋。徳川秀忠の妻、江(崇源院 1573〜1626) の廟所である。秀忠廟所に比べれば地味な印象だが、漆の表現などが窺える。
建物は神奈川県鎌倉市建長寺の仏殿として現存。

ここで紹介したのはいずれも死者を祀る建物です。これらは霊廟建築といわれ、江戸建築の最高峰と いわれました。建物の規模はいうに及ばず、装飾は内にも外にもまさに贅を凝らしたものでした。
残念ながら建物は一部しか残っていないのですが、その一部からでも贅を凝らした姿が窺えますし、 また一部ではありますが写真が残っており、それを見るだけでも江戸の建築の最高峰の姿を見ることができます。
問題はこの装飾が何のためにあるのか。ただ飾るだけならどんな彫刻でもいいはずです。 管理人がいつも言う「飾るとは?」ということにつながります。

○おわりに

「江戸図屏風」から気になる建築を拾ってみました。絵画作品を扱う時、 それが現実の姿なのか、それとも絵空事なのかという議論や景観年代が問題になります。 一番よいのは残された建築を直に見ることなのですが、例えば大名屋敷の門でかつ装飾を帯びた 門は現存しておりませんし、今となってはこの屏風から偲ぶしか方法はないのです。
改めて考えて見ますと、この屏風に描かれている門に似ているのが大徳寺唐門や 西本願寺唐門です。また、二条城の唐門も挙げることができるでしょう。そんな門が大名屋敷の並ぶ 界隈に連なっていたとすると、各大名家は格式を誇るため、将軍御成のために財力を惜しまず 装飾に力を傾けていたことが窺えます。これは「人のための装飾」「人に見せるための装飾」 となるでしょう。しかし、塀に彫られた犀は明らかに境界線の意味があるでしょうし、 獅子には魔除けの意味が見出せるでしょう。
次に霊廟ですが、残念ながら「江戸図屏風」では「飾られている」ということはわかっても、詳細はつかめ ません。しかし残っている建物や写真などから一部復元することは可能です。また、 その集大成が日光東照宮と考えるならば、霊廟建築のパターンが見出せてくるのではないかと思います。

江戸時代初期、建築装飾は絶頂を迎えました。しかし史料は少なく、それを知るには難しい状況です。 そんな中ささやかながらも絵画史料として現存する「江戸図屏風」。たった一つの屏風からでも問題提起や 推論は可能であることをこの屏風は教えてくれるのです。

参考
小沢弘 丸山伸彦『図説江戸図屏風をよむ』1993年 河出書房新社
内藤正人『江戸名所図屏風』2003年 小学館

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